現在、注射器による静脈麻酔が一般的ななか、医師の石北直之氏はガス吸引麻酔の有用性を提唱、実用化のための仕組みを考案し、「嗅ぎ注射器」を発明しました。嗅ぎ注射器が解決し得る医療の課題とその先の未来について、石北氏に伺いました。
石北直之 嗅ぎ注射器 宇宙医療医学生による宇宙医学スタディツアーにて ※石北直之氏:右から5番目

<プロフィール>
石北 直之
国立病院機構渋川医療センター 小児科
STONY 代表

群馬県渋川市生まれ。2004年岩手医科大学医学部卒業。2010年12月、けいれん発作の初期治療のため、手のひらサイズの簡易吸入麻酔器「嗅ぎ注射器」を着想し、研究スタート。

株式会社ニュートンと共にプロトタイプを開発し、さらに3Dプリント可能な特殊形状へ改良。既に宇宙電送実験および無重力下動作実験に成功しており、米国火星アカデミーによる世界初の模擬火星基地医療シミュレーション「Mars Medics」に公式採用された。

現在、国立病院機構渋川医療センターの小児科医師として勤務する傍ら、嗅ぎ注射器を世界中に広めるための活動に邁進中。

2015年 品川ビジネスクラブ第5回ビジネス創造コンテスト 最優秀賞
2017年 内閣府主導 宇宙ビジネスアイデアコンテスト S-Booster ANAHD賞
2018年 米国 宇宙航空医学会(AsMA) R&D Innovation賞

石北直之 嗅ぎ注射器

複雑で時間のかかるてんかん発作への対処を、「嗅ぎ注射器」で誰もが簡単にできるようにする

ーー本日はよろしくお願いします。早速質問なのですが、「嗅ぎ注射器」とはどのようなデバイスなのでしょうか。
石北直之 嗅ぎ注射器
石北:一言でご説明すると、簡易吸入麻酔装置です。注射器を用いるガス吸引麻酔器と言った方が伝わりやすいでしょうか。

通常は注射器で体内(静脈)に薬を入れ麻酔をかけるのですが、これはガスを嗅ぐことで人を眠らせます。誰でも使える手のひらサイズのデバイスになっています。

ーーなるほど、一般向けのガスの麻酔ということですね。どのようにして嗅ぎ注射器の着想を得たのでしょうか。

石北:きっかけは北海道大学の白石秀明先生のご講演です。

私の勤めていた病院の上司からは、てんかん発作(けいれんを繰り返す脳の病気)の対処は「発作を起こしてても、放っておけばいつかは鎮まるから慌てず落ち着いて対処するように。」と指導されていました。

しかし、白石先生の「てんかん発作は脳の手術をしてでも早急に治療介入すべきであり、そうすれば正常な発育や社会復帰が可能になる」という主張を聞き、実際に病院に戻って看護師さんに患者さんの昔の様子を聞いてみたところ、それまでの処置では病状が悪化している現実がありました。

今では寝たきりのてんかん患者さんが、10年前は自立的な生活をしていました。

しかし、繰り返す発作が少しずつ脳を蝕み、最後には寝たきりになってしまいます。

だから、「発作が起きたその都度、適切な処置ができるかどうか」が、患者さんの命や人生に関わるということを実感しました。

しかしそれがわかっても、現実には複雑で時間のかかる対処法しかありませんでした。

日本小児神経学会の示す治療ガイドラインに沿って患者さんの発作を抑えるのですが、「最初はこの薬、次はこれ」と優先順位があり、体重によって薬の投与量も全く違います。

さらに、薬のほとんどが容器に入っているため、そこから所定量を注射器で吸い出して、生理食塩水で適度な濃度に薄めるなど準備に時間を要します。

けいれんしている患者さんに正しく注射を打つのも一苦労だということがわかりますよね。

そして、それが全部ダメだったら、ガスを嗅がせます。

1980年代の論文 (W. Andrew Kofke, Michael T. Snider et al.:Prolonged Low Flow Isoflurane Anesthesia for Status Epilepticus. Anesthesiology 5:653-656, 1985) ですでにイソフルランというガス麻酔が最強かつ安全であることは証明されているのですが、その機械が重厚・巨大なうえ複雑な操作を要するため、これが最終手段になっていました。
石北直之 嗅ぎ注射器<従来の吸引麻酔のための機器>

このように色々な薬を準備し試しているその時間は、患者さんにとっては一生を左右する数分間です。

もし最初からイソフルランを使うことができたら、何人もの患者さんを救えるかもしれない。

「誰もが使える小型・軽量なガス吸引麻酔器があったらいいな」と思いました。

これが嗅ぎ注射器の研究の始まりです。

医療の新しい未来を切り拓く嗅ぎ注射器の仕組みとは?

ーーそのガス吸引麻酔器を使えば「より確実に短時間で目の前の人の命が救える」ということですね。素晴らしいコンセプトだと思います。その嗅ぎ注射器の仕組みを詳しく説明していただけませんか。

石北:下のコンセプト図をご覧ください。
石北直之 嗅ぎ注射器基本は手動式の人工呼吸器と同じです。呼吸させる際、空気と共に麻酔ガスを吸わせることが出来ます。

嗅ぎ注射器の最も革新的な部分は呼吸のペースと空気量を自動調節する弁(図の中央、赤い部分)です。

普通の弁は、肺が肺活量以上の空気量(圧)になったら弁が開いて空気が漏れ出るだけの安全機構ですが、これは肺が膨らんで設定した圧になったら弁が開き、肺がしぼんで圧が下がるまで弁が閉じないという特殊な構造です。

今までの弁とは全く動きが異なり、まさに呼吸の動きをするようになっています。

この弁のおかげで、バッグを揉まなくても空気や酸素を流すだけで、患者に呼吸をさせると同時に、麻酔ガスを吸わせて眠らせることができます。

嗅ぎ注射器がもたらす価値と実現する未来

ーーこれが実用化されたら、どのような価値をもたらすとお考えですか。

石北:例えば、年間100人のけいれん患者の治療が遅れ寝たきりになった場合、医療を受けなければならなくなり、学生なら養護学校に通う必要も生じ、莫大な社会資源を利用することになります。

しかし、嗅ぎ注射器を使うことで治療を間に合わせることができれば、彼らは社会復帰することができます。

救急車やAEDの収納ボックスにこのデバイスを導入できれば、大きな社会的価値を生み出せると信じています。

ーー他の分野にも応用可能なのでしょうか。

石北:嗅ぎ注射器のいい点は、ちょっと眠りたいという時にも使えることです。

例えば多くの人が苦しむ内視鏡検査。

匂いの刺激が全くないセボフルランというガス麻酔を使い、麻酔で眠っている10分の間に行ってしまえば、もう検査で苦しまなくてすむようになります。

すると、胃癌や大腸癌の予防になる内視鏡検査を、多くの人が積極的に受けるようになるかもしれません。

また、宇宙でも大きな需要があると感じています。

ーー宇宙、ですか。どういうことでしょうか。

石北:今は非常に厳しい訓練を受け、健康管理を万全に行った宇宙飛行士しか宇宙に行きませんが、今後は状況が変わっていくと考えています。

これからは民間で宇宙旅行を計画し、月・火星での生活が構想され、健康でない人も宇宙に行ったり、長期間宇宙に滞在したりする未来が来ます。

大きな病気やケガをしてもすぐに地球に戻って来れないので、宇宙で対処する必要があります。

実は宇宙でつかえる麻酔器は未だにないため、軽量でコンパクトな嗅ぎ注射器に大きな注目が集まっています。

既に無重力実験にも成功しており、本格的に活用の検討が始まりました。NASAの宇宙飛行士は嗅ぎ注射器を宇宙へ持っていくと言ってくれています。
石北直之 嗅ぎ注射器 社会起業家
ただ、ここまでの道のりは決して楽なものではありませんでした。

薬事承認されていない医療機器は宇宙船へ積載できないことが判明し、研究をあきらめかけた時期もありました。

2014年、NASAが3Dプリンターを宇宙に打ち上げることになり、「持っていけないなら、宇宙で作ればいい」と気が付き、ブレイクスルーが起きました。

宇宙用にデザイン改良をするには2年かかりましたが、2017年1月に行われた嗅ぎ注射器構成部品のデータの宇宙電送実験は無事成功し、地球からどんなに離れていても人の命を救うことの出来る、世界初の技術が確立したのです。
石北直之
昨年11月には、米国火星アカデミーに嗅ぎ注射器が公式に採用されました。

私は「火星基地での診療を地球から遠隔サポートする」という役割でミッションに参加しています。

現在は、嗅ぎ注射器を本当に宇宙で役立てるために、麻酔ガスリサイクル装置の開発にも取り組んでいます。

宇宙では物資は極限に乏しいので、吐き出したガスを捨てるのではなく、リサイクルする必要があります。

石北直之 嗅ぎ注射器
S-Booster 2017という宇宙ビジネスコンテストでアイデアを発表した際には、ANAから機内での非常用医療機器として大いに有用だと評価され、スポンサー賞をいただきました。

今まではフライト中に乗客の緊急的な医療処置が必要になった時、最寄りの空港に臨時着陸するしかありませんでした。

診療機器のない機内では「診る」ことはできず「見る」ことしかできなかったからです。

審査員の方は、全航空機が嗅ぎ注射器を搭載し万一に備えることでより安全に旅行できる未来を描いていらっしゃいました。
石北直之 嗅ぎ注射器
ーーなるほど、本当に場所に限らず医療を施すことが可能になるということですね。

石北:まだ大きな声で言えませんが、麻酔ガスは麻酔の域を少し超えたところにも汎用できると思っています。人工冬眠をご存知ですか?

ーーSF映画でみる、人間を眠らせてエネルギー消費を抑え、時間が経つのをただ待つときにとる睡眠のことでしょうか?

石北:はい。アメリカのSpaceWorksは、「人間を低体温にして代謝を落とし、栄養摂取や排泄はチューブを使い、筋肉・骨に電気で刺激し衰えを阻止する」というコンセプトを提唱しているのですが、課題は「どうやって眠り続けるか」でした。

麻酔ガス回収装置が完成すれば、人工冬眠が本当に実現できるかもしれません。

長期宇宙ミッション(1年を超える長期の宇宙滞在任務など)の大きな課題である孤独や人間関係も、人工冬眠この技術で緩和することができます。また、眠ってる間はスペースを取らないので、より多くの物資も積めます。

麻酔ガス回収装置これは自分には作れませんでしたが、群馬県産業技術センターのエンジニアが開発を手伝ってくださっています。もしこれが完成したら、ガス吸引麻酔による人工冬眠は現実のものになると思っています。

家族・友人の応援を支えに、医学会からの反対を受けながらも研究を続けた

ーーこれほど多くの可能性があるとは、実用化されるのがとても楽しみです。ここに至るまで、どのような困難がありましたか。

石北:日本の医学会ではなかなか受け入れられなかったことです。

私の考えに共感していただけるかと思ったら、むしろ怒られました。
どんなに有用性や安全性を主張しても、すぐに「それでも万が一これで事故が起きたらどうする、誰が責任をとるのか」「今まで誰もやってこなかったのなら需要がないということだ」といった批判を受けます。

宇宙分野での応用をJAXAに提案説明させていただいた時も、批判を受けました。

もし医学会の上層部の方が嗅ぎ注射器に応援していただけたら、日本で多くの協力者が得られるのですが、現実は真逆でした。

結局は機器を使った人の技量によるところもあるのですが、全てデバイスのせいにしようとします。

「扱う人が責任持って患者を助ける」という意識が欠如していると感じました。

ーーその反対を、どのように乗り越えたのでしょうか?

石北:海外で賛同を得られれば日本の上層部も考えが変わると思い、国際学会へ参加することにしました。

宇宙に関しても、まずNASAに掛け合って、その後改めてJAXAに協力を要請しよう思いました。

最近では、国際的な宇宙医学会AsMAで表彰され、NASAの宇宙飛行士は宇宙に持って行くとまで言ってくださったので、日本でも認めらることを期待しています。

困難を乗り越える支えになったのは、応援してくれる周囲の人間、家族や友人でした。

彼らがいなかったら私は研究を続けられなかったと思います。

周囲に反対されながら、研究を続け、試作品を作ったり、協力を得たいところに説得しに行くモチベーションを保つのはとても厳しいです。

でも、強く応援してくれる人がいたからこそ、地道に積み重ね、ここまでこれたと思います。

実用化に向けた今後の課題

ーー今後はどのような課題があるのでしょうか。

石北:自分は勤務医であり、実用化して普及させていくための量産体制を1人で作ることができないので、製薬会社や医療機器メーカーの協力が必須です。

嗅ぎ注射器の製品化に賛同してくださる企業を探すのに苦労しましたが、ようやく医療機器メーカーの協力が得られそうな状況にまでたどり着きました。

さらに大変なのは、薬事承認申請です。

全ての医療機器は、薬事法にある医療機器に関する細かい規定に従ったものになっています。

嗅ぎ注射器は、吸入麻酔器としての規定を覆す新しいデバイスなので、新しい医療機器として申請し承認されなければ世に出すことはできません。

しかし、この薬事承認申請のためには臨床研究と医師主導治験をしなければならないのですが、勤務医である私にはそれを行うだけの潤沢な資金はありません。

資金調達は今後の大きな課題です。

その関連で、個人事業として研究・開発を進めてきた「STONY」を、株式会社化すべきかの岐路に立っています。

「医療機器でお金儲けをするなんて」と批判する人もいますが、ビジネス側の方々にとっては会社がないと出資しにくいのです。

ーー協力者集め、資金集め、薬事法申請を同時に進めるのは大変ですよね。

石北:先ほど例にあげた内視鏡検査でこのデバイスを使おうとすると、それにも別の臨時研究と治験が必要になります。

1人では不可能なので、学会に出席してネットワークを広げながら、嗅ぎ注射器の応用研究をしていってくださるパートナーを探しています。

現在は、鹿児島大学歯学部の佐藤秀夫先生が障害児の歯科治療にガス吸引麻酔が有用だとおっしゃって、共同研究を提案してくださっています。

今後もそのような仲間を探しながら、この嗅ぎ注射器の可能性を現実のインパクトに変えていきたいと思っています。

信念を貫けば応援してくれる人は増えていく

ーー最後に、社会の課題に向き合っている人や課題意識から今後行動を起こしていく人にメッセージをお願いします。

石北:もし100人が100人とも私のアイデアを聞いて反対したら、研究をやめていたかもしれません。

でも、応援してくれる人がいたから、私は頑張れました。

日本だけじゃなく海外にも目を向けるといいと思います。外の世界に行くと全く違う評価を受けて、今まで笑われたり怒られたりしていたことは大したことではなかったと思えてきます。

やりたいことを諦めずに、頑張ってください。自分の信念を貫くことで、徐々に応援してくれる人が増え、協力者が見つかり、道が拓けてきます。

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